明治41年(1908年)北部初のそば屋「梅屋」ができた。
そこで修行していた山入端さん
梅屋が店をたたんだため、やむなく「新垣バス」に勤めた
が、そばへの思いが断ち切れず、自分でそば屋を始めた
1923年(大正12年)のことである。
名称は「新山食堂」
新垣バスの「新」と山入端の「山」をとって「新山食堂」と命名
梅屋のグーヤー骨と鰹節でとったあっさりだがコクのある出汁は、
山入端さんによって、新山食堂に引き継がれた。
それから93年あまり
地元名護の豚肉を使ったその味は、今も変わらず引き継がれている。
二代目寺田初さんによって体に良いものをと
結び昆布とあげ豆腐がトッピングされた。
95歳で亡くなるまで毎日味をチェックしていた山入端さん
常にお客さんに喜んでもらえる味、
お客様の体に良いものを求めいた
初代山入端さん、二代目初さんの思いを
私たちは引継ぎ、日々精進していきます。
美味しかったよ
やんばるに行くときは必ず「新山食堂だよ」と
言ってくださるお客様に支えられてここまで来ました。
1392年 | 中国から「支那そば(中華そば)」が伝えられる。 |
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1404年 | 明との朝貢開始。琉球にくるようになった冊封使によって琉球王国をはじめとした上流氏族に麺料理が供された。 |
1534年 | 尚真王の供養(49日)法要に「粉湯」給された。 |
1902年(明治35年) | 「支那そば屋」開業。通称「唐人そば」。 |
1905年(明治38年) | 比嘉ウシが「ベーラーそば(通称)」開業 唐人そばと競い合い、勝利したといわれている。 |
1908年(明治41年) | 名護に初のそば屋「梅屋」開業。(経営者:岸本金吉) 山入端さん、梅屋で修行。 |
1909年(明治42年) | 職人気質のそば屋「森屋」が那覇に開業。 |
1913年(大正2年) | 「ウシンマーそば」開業。八重山そばの原点。 |
1916年(大正5年) | 「支那そば」の名称を「琉球そば」に変更するよう那覇警察署長が指導。 |
1918年(大正7年) | 首里に「ゆたか屋」開業。(経営者:豊平) |
1918年(大正7年) | 名護の「梅屋」旅館業経営の為、店を閉じる。 山入端さん、やむなく「新垣バス」で働く。 |
1920年(大正9年) | 「井筒屋」開業。(森屋で修行していた新里が経営。) |
1923年(大正12年) | 山入端さんが「新山食堂」開店。 新垣バスの「新」と山入端の「山」をとって、「新山食堂」と命名。 |
1924年(大正13年) | 「ゆたか屋」が紅生姜を始める。 出汁の色が黒いスープから白いスープが主流になる。 |
1925年(大正14年) | 「三角屋」開業。(吉本が森そばから権利を買い取り「三角屋」に名称を変更。 井筒屋がかき氷を始める。 |
1929年(昭和4年) | 「万人屋」開業。 いなり寿司の元祖。 |
1945年(昭和20年) | 戦争の為すべてのそば屋が壊滅する。 |
1948年(昭和23年) | 井筒屋や万人屋、三角屋といった名店の続々と再開。 |
1950年代中頃 | 製麺所からゆで麺のそばが売り出される。 |
1960年代 | 老舗、そば屋が相次いで廃業(プロパンガスの普及により、木灰が手に入らくなったため。) |
1960年代 | 新山食堂でも「木灰」が入手困難なため、新山そばレシピを「三角屋製麺所」に渡し、製麺を委託する。 名護の平麺の始まり。 |
1967年(昭和42年) | 県内で初めて「年越しそば(日本そば)」を販売。(108食) |
1968年(昭和43年) | サン食品が県内で初めて「年越しそば」として「沖縄そば」を販売。 |
1972年(昭和47年) | 本土復帰「沖縄そば」の呼称が用いられる。 |
1973年(昭和48年) | 寺田初が新山食堂2代目として暖簾を引き継ぐ。 「体に良いものを」とこれまでのトッピングに「結び昆布」と「揚げ豆腐」を加える。 |
1976年(昭和51年) | 沖縄県公正取引室より「沖縄そば」の名称についてクレームがつく。 |
1987年(昭和62年) | 沖縄そばの本土移出認可。 |
1997年(平成9年) | 沖縄生麺協同組合が10月17日を「沖縄そばの日」に制定。 |
2000年(平成12年) | 沖縄そばの消費量が1日あたり15〜16万食となる。 |